LOGIN金曜日の放課後、教室の窓から差し込む光は、もうすっかり春の色をしていた。
柔らかくて、少しだけ眠気を誘うような橙色。
机の上に伸びる影も長くなっていて、一週間の終わりを告げるように教室全体の空気がどこか緩んでいる。
久瀬湊人は、その空気の中で教科書を鞄へしまいながら、ふと不思議な感覚に襲われていた。
――一週間前まで、ここに僕の席はなかった。
当然といえば当然だ。
転校してきたのはつい最近なのだから。
柊坂真白は、違和感に対してわりと執念深い。 別に探偵気質というわけではないし、何でもかんでも白黒つけたいタイプでもない。 でも、毎日の中で妙に引っかかるものがあると、それを“まあいいか”で流すのが苦手だった。 誰かの声色がいつもと違うとか、 提出物の期限を誤魔化している顔をしているとか、 言葉は平然としているのに、目だけが妙に忙しいとか。 そういうのは、見えてしまう。 見えてしまうと、頭の片隅にずっと残る。 だから今の久瀬湊人に対しても、真白の中にはいくつもの引っかかりが並んでいた。 文化祭の日の非常階段。 打ち上げの日に来られなかったこと。 教室まで来たスーツの男。 校門の外を見ている知らない大人たち。 そして、その全部のあとで、それでも学校へ来て、窓際に座って、何事もない顔を作ろうとする久瀬の横顔。 ここまで並べると、もう“なんかある”では済まない。 済ませたくないというより、済まないとしか思えない。 しかも真白にとって一番腹が立つのは、秘密の正体そのものより、異常事態を異常事態として扱わないまま隣の席に座ろうとする、その無茶の方だった。「……ほんと面倒」 朝、駅から学校へ向かう道を歩きながら、真白は小さく呟いた。 問い詰めたいわけじゃない。 何を隠しているのか、今すぐ全部吐けとも思わない。 でも、“何かあっても言わずに一人で何とかしようとする”のだけは、さすがに放っておきたくない。 それが親切心なのか、 責任感なのか、 ただ単に隣の席の人間として気持ちが悪いのか、 そこは自分でもまだよくわからない。 ただ一つわかるのは、前みたいに「知らないから関係ない」で切れなくなっているということだった。
翌日から、校門の外にある“視線”は、妙に現実味を帯びてそこに居座るようになった。 最初は気のせいかと思った。 昨日の夕方、校門の向こうに立っていた、あの黒っぽいコートの男。 家側の人間とも違う。 相馬たちみたいな、洗練された“身内の静けさ”ではない。 もっと乾いた、もっと公的で、だからこそ遠慮のない気配。 だが火曜の朝、登校してすぐにその違和感は気のせいではなくなった。 校門から少し離れた歩道。 通学の流れから一歩だけ外れた位置。 昨日と同じ男ではない。 けれど、似たような立ち方をした別の男がいる。 地味なジャケット。 手にはスマホ。 でも、画面を見ているふりをしながら、意識のほとんどは学校の出入りへ向いている。 そういう視線だ。「……本当にやめてくれ」 久瀬湊人は心の中で小さくそう呟いた。 ただ見ているだけ。 ただ校門の外に立っているだけ。 それだけなのに、妙に空気が冷える。 学校という場所は、本来もっと雑多で、ゆるくて、誰かの視線に一々輪郭を与えないくらいには無防備な場所のはずだ。 なのに、外から“目的を持って見ている目”があるだけで、その無防備さは一瞬で不安定になる。 そして今の湊人には、それが自分絡みである可能性が高いことも分かってしまっている。 家側ではない。 少なくとも相馬たちの動きではない。 だとすると、もっと別の線だ。 それが何より嫌だった。 家側ならまだ、こちらにも言い返す窓口がある。 配信側ならまだ、マネージャーへ相談できる。 だが、正体の分からない“公的な匂い”には、動き方そのものが読みづらい。 しかも最悪なの
月曜の放課後、教室の窓から差し込む光は少しだけやわらかい。 文化祭の熱も、 打ち上げの余韻も、 教室へ入ってきたスーツの男の嫌な気配も、 それぞれがまだ完全には消えていないのに、時間だけはちゃんと前へ進んでいる。 その“前へ進んでしまった感じ”を、久瀬湊人は最近ずっと不思議に思っていた。 もう少し、壊れると思っていたからだ。 文化祭の非常階段。 数秒だけ聞かれた声。 打ち上げに行けなかった夜。 教室の中へ踏み込んできた学校の外の人間。 どれも、本来ならもっと大きく何かを崩してもおかしくなかった。 少なくとも、窓際の空気はもっと気まずくなってもよかったはずだ。 それなのに、完全には壊れなかった。 前と同じではない。 でも、残っている。 しかもその残り方は、以前より少しだけ深い。 誰も正体は知らない。 誰も全部は分かっていない。 それでも、“ここを壊したくない”だけは、もうかなり共有されてしまっている。 その事実が、最近の湊人には一番重くて、一番ありがたかった。 ◇ その日の昼休み、窓際の一角は妙に静かに落ち着いていた。 日野が購買のパンを半分こぼしながら食べ、 すばるが「食べ方終わってる」と笑い、 真白が「机汚すな」と冷たく刺し、 紬希がティッシュを差し出す。 たったそれだけの、なんでもない流れ。 でもその“なんでもなさ”が、今は少し特別だった。 こういう普通を、最近は前よりちゃんと守ろうとする空気がある。 誰か一人が頑張るのではなく、五人全員が少しずつ。「そういえば」 日野がパンを飲み込みながら言う。「来週、写真共有
柊坂真白は、自分が“わからないものをそのままにしておく”のが得意な人間ではないと思っていた。 曖昧な返事は嫌いだし、 来るのか来ないのか分からない予定も嫌いだし、 何かを隠されたまま振り回されるのも、もちろん嫌いだ。 だから本来なら、久瀬湊人みたいな人間とは相性が悪いはずだった。 何か言えない事情がある。 時々急に遠くなる。 でも来たい時だけはちゃんと来たそうな顔をする。 そういう、“全部は見せないくせに、気持ちの一部だけは見えてしまう人間”なんて、いちばん面倒な部類だ。 少し前までの真白なら、そこで切っていたと思う。 面倒だから距離を取る。 わからないものはわからないまま、あっちで勝手にやって、と。 でも今は、そうなっていない。 文化祭の非常階段で、何か外の顔があることを感じた。 打ち上げの日に、来たかったことだけは本当だと知った。 教室へ入ってきたスーツの男で、外側の重さが学校まで食い込んでくることも見た。 そこまで見たあとで、問い詰めたところで何かが楽になるとは思えなかった。 むしろ逆だ。 問い詰めれば、この人はたぶんもっと困った顔をする。 それを見たところで、自分だって気分が悪い。 だから最近の真白は、少しずつ別の方を選び始めている。 聞かなくても隣にいる。 知らないままではないけれど、今は聞かない。 その代わり、倒れそうな顔をしていたら刺すし、無理をしていれば止める。 そういう、半端にやさしいことを、気づけばずっとやっている。「……ほんと、私らしくない」 朝、制服のリボンを整えながら小さく呟く。 でも、らしくないと思いながら、それをやめたいとも思わない。 それがたぶん、
鳴海すばるは、自分が“守る側”の人間だと思ったことはあまりない。 どちらかと言えば、守られるよりは自力でなんとかする方だし、誰かを庇って前へ出るタイプでもない。 空気は読む。 流れも読む。 でもそれは、場を回すためというより、自分が楽しくいるための調整に近い。 だから、文化祭の非常階段で数秒聞いてしまった声のことも、 打ち上げに来られなかった夜の短いメッセージのことも、 教室にスーツの男が入ってきた時の空気の悪さも、 全部まとめてずっと“困るなあ”の側に置いていた。 面倒だ。 気になる。 気になりすぎる。 でも、だからって自分が何かできるわけじゃない。 そう思っていた。 けれど、その認識が少しだけ変わったのは、月曜の放課後のあとだった。 教室まで来たスーツの男。 学校の空気を何も知らないまま、ただ“用件があるから”という顔で久瀬湊人を呼び出した大人。 あの時すばるの中で一番強かったのは、“本人かどうか”への疑いでも、“推しに近い”というざわつきでもなかった。 普通に嫌だった。 教室の空気を壊されるのが。 久瀬が、明らかに嫌そうな顔をしているのが。 みんなの前で、学校の外の重さだけが急に持ち込まれるのが。 それを思い返した時、すばるはようやく気づいた。「……あ」 自室のベッドに転がったまま、天井を見上げる。「私、そっちなのか」 本人かどうかはまだ決めつけたくない。 そこは変わらない。 でも、それとは別に。 何であれ、今しんどそうな久瀬湊人が嫌だ。 その気持ちが、かなりはっきり出てきている。
月曜の午後、学校という場所は、一度落ち着いた顔をしてからまたざわつく。 昼休みが終わり、授業が二つ三つ流れて、放課後が近づいてくる頃。 眠気と倦怠感と、帰り支度への薄い期待が混ざって、空気そのものが少しだけ緩む時間だ。 その緩みの中で、久瀬湊人は逆に少しずつ神経を尖らせていた。 理由は簡単だ。 こういう、“学校が学校らしい無防備さになる時間”に限って、向こう側は平然と近づいてくるからだ。 先週の金曜は、校門の外で相馬と会った。 土曜は家側の用件で削られ、月曜はその疲れを教室へ持ち込んだ。 そして今週も、まだどこかで“確認”が続いている気配がある。 通知は来ていない。 でも、それが逆に嫌だった。 家側が本当に厄介なのは、必要な時にだけ静かに現れるところだ。 こちらの予定表へわざわざ大きく割り込むのではなく、ちょうど逃げにくい場所を選んでくる。 学校の近く。 帰り道。 放課後の数分。 教室の空気の外側ぎりぎり。 そこを知っているみたいに、毎回少しだけ踏み込んでくる。「……来るなよ」 誰に向けたともなく、心の中でそう呟く。 だが、そういう日に限って、嫌な予感は当たる。 ◇ その日の窓際は、久しぶりに少し軽かった。 文化祭も打ち上げも一段落し、重たい話題の山をひとまず越えたからだろう。 完全に以前のままというわけではないが、少なくとも、会話がいちいち引っかからずに流れる瞬間が増えていた。「でさ」 鳴海すばるが言う。「打ち上げの写真、級長がアルバム作るって」「仕事早い」